「芸術と科学のあいだ」(福岡伸一、木楽舎、2015)を図書館で借りて読みました。絵画や建築などの作品をひとつひとつテーマにした短編のエッセイ集です。フェルメールや科学者のエピソードなどが4ページほどのエッセイとして数多く紹介されています。内容はまったく堅苦しくなくどれも小気味よいお話です。

装丁のタイトルフォントはおしゃれで魅力的です。本のサイズは小さく文字が少し大きめなので、持ち歩いて空き時間に読むのにもぴったりです。2時間ほどですぐに読み切れる内容でした。私が気になったエピソードを以下に紹介します。

レオナルド・ダ・ビンチの手稿

著者が六本木ヒルズの森美術館でレオナルド・ダ・ビンチの手稿を見たときの話です。

ダ・ビンチの筆の特徴は、線が左上から斜め右下へと流れていることである。これは彼が左利きだったかららしい。もう一つの際立った特徴は、文字がすべて鏡文字、左右反転で書かれていることだ。(引用元:54ページ)

これはとてもびっくりしました。私はこの鏡文字に、ある種の天才や芸術家が、ジグソーパズルを反対側にして組み立てたりする奇妙な行動を思い出しました。この鏡文字の理由にはいろいろな説があるようですが、著者はこのように推察しています。

ダ・ビンチの鏡文字は自分の原稿をいつの日か大量活版印刷するために意図された周到な準備だったのではないか。(引用元:55ページ)

とても実際的な考察になるほどと思いました。ただ私の個人的な感想は、ダ・ビンチにとって鏡文字で書くことは、ただ面白いとかアイディアが浮かびやすいとか、何か奇妙な人間の、ダ・ビンチ個人の性質がうつしだされているといいなと思います。真偽が明かされた日が来たら、私は少し残念な気持ちになるかもしれません。

レーウェンフックの観察記録

顕微鏡であらゆるものを観察しスケッチしたことで有名なレーウェンフックの観察記録が保存されているロンドン王立協会の書庫を著者が訪ねた時のことです。

何百ページにも及ぶ手稿と観察スケッチ。……科学的という以上に芸術的なのだ。レーウェンフックは正直にこう記している。「自分で上手に描くことはできないので、熟達の画家に依頼したのです」(引用元:75~76ページ)

私もフックのスケッチは別の本で見たことがあったので、その芸術的なスケッチにとても感動しました。こんな観察スケッチができたらどんなに楽しいだろうと思いました。しかし、それはフックによるスケッチではなく、画家によるスケッチのようです。これはまったく初耳だったので、「えっ、そうだったの!」ととても驚きました。これは有名な話なのでしょうか。

そしてさらに興味深いのが、フックの代わりに描いた絵師はいったい誰なのかということです。著者はこのように考察しています。

私はすぐにひとりの名前を思い浮かべた。しかし、そんなことがありえるだろうか。フェルメールは素描やデッサンを一点も残していない。彼のタッチや画材を今、知ることはできない。しかし、レーウェンフックの記録を丹念にたどっていくと不思議なことに気づいた。ある時点を境に顕微鏡のスケッチの絵が急にへたくそになっているのだ。どうやら画家が交代したらしい。境とは1675年。この年の暮れ、フェルメールは43歳で亡くなった。(引用元:76~77ページ)

著者はフェルメールの愛好家としても活動されているのですが、この仮説はとても興味深いです。フックのスケッチが実はフェルメールの描いたものだとしたら、こんなに驚きの発見はありません。フックやフェルメールの専門家にぜひ検討してほしい仮説です。現代の科学技術を使っても検証は難しいのでしょうか。

結晶の美に迫ったパスツール

フランスの科学者ルイ・パスツールは、結晶の美しさに魅了され、その結晶の観察から分子の鏡像性(右手と左手の関係にある分子の立体構造)を発見しました。そのパスツールについて、著者はこのように紹介しています。

パスツールはこう言った。Chance favors the prepared mind(発見のチャンスは準備された心に降り立つ)。準備された心とは、何かをよく知っていることではなく、むしろ既存の知識や概念にとらわれない心、つまりオープン・マインドのことである。(引用元:115ページ)

私が大学生のころ先生にいわれたのは、「チャンスが来たときのためにきちんと準備をしておきなさい」という言葉でした。この背景にはもう少し具体的な事柄があり、「留学に応募できるチャンスが来るまでに、きちんと英語を勉強しておきなさい」というニュアンスが含まれていました。

パスツールや著者の言う「準備された心」というのは、これとは少し違ったものだと感じました。もちろんあらゆるチャンスをつかむためには、実際的な準備は当然必要なのですが、それよりも、準備された心というのは見落とされがちな気がします。少し教訓的で説教っぽいところもある言葉ですが、新しい視点を得た気がしました。

これらのエピソードの他にも、著者が愛するフェルメールをはじめとする絵画や、建築、昆虫などについて幅広く書かれています。タイトルにある芸術という言葉は、少しかしこまった印象が私にはあるのですが、それよりももっと身近で親しみのある話ばかりの本です。