上野の東京都美術館で開催されている「没後50年 藤田嗣治展」(2018年7月31日~10月8日)に行っていました。それまで藤田嗣治の作品は見たことがなかったのですが、想像以上に楽しむことができ、またその作品や作者の人生からいろいろ感じることができました。展示会の概要と感想を紹介します。

没後50年 藤田嗣治展

展覧会の概要です。東京都美術館はJR上野駅の公園口から上野動物園の方向へ歩いて5分ほどです。

没後50年 藤田嗣治展
会期:2018年7月31日~10月8日 9:30~17:30 ※金曜日は9:30~20:00(入室は30分前まで)
場所:東京都美術館 〒110-0007東京都台東区上野公園8-36
当日券:一般 1,600円(大学生・専門学校生 1,300円 / 高校生 800円 / 65歳以上 1,000円)
公式HP:没後50年 藤田嗣治展
アクセス:東京都美術館アクセス

所要時間と混雑

私は土曜日の午後3時半ごろに美術館につきチケットを購入しました。購入には5分ほど並びましたが、入場の規制などは特になくスムーズに入れました。会場内は少し混んでおり、自由にじっくり見ることは難しいですが、少し時間をかければすべての作品をきちんと正面でみることができるくらいの混雑でした。私が美術館を出た4時半ごろは、入場口もかなり空いていてチケット売り場も並んでいませんでした。夕方の少し遅い時間のほうがゆっくり鑑賞できそうです。

作品をすべてじっくり見るには、少し混雑していることも勘案して2時間ほどほしいです。私は用事で1時間ほどしか滞在できませんでしたが、もう少しゆっくりみたかったです。お土産売り場はレジが複数あるのですぐに買えました。

藤田の生涯

藤田嗣治展では、藤田の作品120点以上をその一生をたどって展示していました。展示は地下2階からスタートし、地下1階、1階へと階をのぼりながらその生涯をたどっていきます。以下にその生涯を簡単にまとめました。

日本を離れるまで

藤田嗣治(ふじたつぐはる)は、1886年(明治19年)に東京で生まれ、1905年~1910年(明治38~43年)に東京美術学校西洋画科(現:東京芸術大学美術学部)で絵画を学びました。ただし、当時日本で主流だった黒田清輝がけん引する画壇とは折り合いが合わず、その絵は評価されませんでした。

パリと第一次世界大戦

1912年に鴇田登美子と最初の結婚をしますが、翌年の1913年に単身でフランスのパリへ渡り、離婚します。パリではパブロ・ピカソなどの数多くの画家と親交を持ち精力的に活動していきます。

しかし、翌年1914年には第一次世界大戦が勃発し生活が困窮します。そんな中、1917年にフランス人女性のフェルナンド・バレエと2度目の結婚をし、1918年にパリで終戦を迎えます。終戦後は、独自のアイデンティティーを確立した絵画が評価され、藤田はパリで名声を高めていきました。

その後、2番目の妻とは離婚し、3番目の妻であるフランス人女性リュシー・バドゥと結婚しますが、結婚生活はまもなく破綻しふたたび離婚します。1931年には、新しいパートナーであるマドレーヌと一緒に南アメリカを旅し、個展では高い評価を受けます。この時期、北米、中南米、アジアと旅して数々の絵画を残しています。

日本と第二次世界大戦

1933年に日本に帰国し、1935年には君代と最後の結婚をしました。その後1939年に第二次世界大戦が勃発し、ドイツに占領されたパリから逃れて日本に帰国しました。日本では陸軍美術協会理事長となって、戦地で戦争記録画を描きました。

≪アッツ島玉砕≫ 1943年 東京国立近代美術館蔵


1945年に終戦を迎えると、藤田はその立場から戦争協力者として非難されるようになり、1949年に日本を離れました。その後、日本に戻ることはありませんでした。

フランスへの帰化

1955年に藤田はフランス国籍を取得し、日本国籍は抹消しました。その後、君代とともにカトリック教徒となり、洗礼を受けて「レオナール・フジタ」の名前を授かりました。そしてその81年の生涯を終え、フランスのフジタ礼拝堂に眠りました。

作品の魅力

展示会では、時代の変遷と藤田の人生が、風景画、裸婦、戦争の作戦記録画、宗教画などとても幅広い作品にあらわれていました。特に印象に残ったことがいくつかあります。

藤田の代名詞は「乳白色の下地」と呼ばれています。「裸婦」の絵に代表されるその乳白色の絵画を、今回の展示会でも多数見ることができました。実際に見てみると、その乳白色は、黒の濃淡や細い輪郭線によって浮かび上がっているように見えました。

≪パリ≫1949年ポンピドゥーセンター(フランス・パリ)蔵
(引用元:没後50年 藤田嗣治展HP

色使いのほかにも印象深かったのは、人間の表情です。とくに「少女」の表情は独特で、笑顔ではない物憂げな眼差しをしていました。関連はわかりませんが、奈良美智の描く少女の表情を連想しました。もしかしたら、奈良美智は藤田からの影響がどこかにあるのかもしれません。

≪二人の少女≫1918年プティ・パレ美術館(スイス・ジュネーブ)蔵
(引用元:没後50年 藤田嗣治展HP

私が最も感動したのは晩年の宗教画でした。晩年の作品は「創造力が落ちたとも言われるが…」と朝日新聞記念号外に書かれていたのですが、最後に展示されていた〈礼拝〉は、日本を離れた作者の人生が終着駅に着いたような幸福感がありました。

≪礼拝≫1962-1963年パリ市立近代美術館(フランス)蔵
(引用元:没後50年 藤田嗣治展HP

戦前は、日本での評価を受けることができず失意の中フランスへ渡り、第二次世界大戦の最終は戦争記録画をとおして日本に勤めたにもかかわらず、戦後は戦争協力者として非難され、またしても日本での居場所を奪われてフランスへ戻り生涯を終えた藤田。

その生涯を思うと、日本社会から理不尽な扱いを受けた悲しみや怒りがきっとあったのではないかと思います。その思いが、晩年の宗教画の中で、君代夫人と並んで祈りをささげている姿に昇華されているように感じました。藤田はその人生を受け止め絵画で表現する中で、幸福を見つけたのではないかと思います。

戦中に画家として活躍し、戦後の社会から非難を受けるという背景は、カズオイシグロの小説「浮世の画家」の背景と同じだとも思いました。